睡紫庵文庫

身辺雑記をまじえた読書雑記です。

「司馬遼太郎が考えたこと」司馬遼太郎

意識した訳ではないけれど、今年の夏、二大東照宮に立て続けに行ってしまった。本当にたまたま。

日光東照宮久能山東照宮

祀る神は東照大権現言わずと知れた徳川家康である。将軍様

徳川家康は自分の亡骸をまず、久能山に葬った後、日光に小堂を造営するよう遺言したという。(京都の金地院にも小堂を造るように遺言)

日光に小堂…。小さいのかな、あれ?家光くんと天海僧正派手にしすぎたような気がする…。

それはともかく、日本全国に東照宮は数多あれど、(ウィキペディアによると現在は約130社だそうだ)この2つの東照宮は別格。徳川将軍家が江戸時代中、維持費をつぎ込んだおかげで(?)、現在でもとにかく絢爛豪華できらびやか。彫刻が細部まで施されていて「は~結構ですな~」とやっぱりつぶやいてしまう。

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日光東照宮の陽明門。扁額の文字は後水尾天皇だそうです。

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こちらは久能山東照宮。写真ではわからないけど、見晴らしサイコー。

 

この二つを二大東照宮とだけ言っていればそれでいいと思うが、どうも日本人は「三大●●」にしたくてたまらないらしく、全国各地の東照宮が「我こそは三つめの東照宮」と名乗りをあげているらしい。

…狭い世界で、狭い争い…。

いいじゃん、2つでも…。

 

そのうちの1つが、我がG県にある。その名も「世良田東照宮」。

この名を聞いてぴんと来る人はかなりの家康ラヴァーであろう。

このあたりには「徳川」という地名があり、「徳川家発祥の地」とされているからなのだ。別に、現代の地元民が「うちの地名、将軍家と同じじゃん!だから、ここが発祥の地に違いねえ!」との薄い根拠で、発祥の地を名乗っている訳では無い。家康自らが、この地を発祥の地としたのだ!

 

司馬遼太郎が考えたこと」は歴史小説の大家、司馬遼太郎の論評やエッセイなどの雑記を集めたものだが、その中に収録されている「徳川家康」という文章の中で、家康の祖先に触れている。

 

家康の数代前、北国のほうをうろうろしていた乞食坊主が、松平郷にやってきた。(中略)

その男も、松平郷の松平家に長逗留していたが、やがて当家の後家さんとできてしまって子がうまれた。(中略)

その子が、家康の祖である。(中略)

家康はえらくなってから家門をかざるために「じつはその乞食坊主が新田義貞の子孫であり、従ってわが家は源氏の名門になる」などというようになった。

 

世良田東照宮のホームページの由緒によると、その新田義貞の子孫は、新田(徳川)義季。その後、9代目の親氏の代に、領地を追われて出奔。これが、司馬遼太郎のいうところの「うろうろしていた乞食坊主」のようだ。(婿に入り、松平親氏と称する)そして、その7代後が家康だそうだ。

 

遠いな…。

無理矢理感、半端ね~。

まあ、当時の人も、現代の人も(多分家康本人も)、信じてないね。

司馬氏も「そういう家ではない」と言い切っている。

しかし、徳川家の皆さんはそうも言っていられないようで、家光くん&天海僧正ペアにより、1644年に日光東照宮からの遷宮が行われ、世良田東照宮が誕生したとのこと。家光くんにとってもご先祖の地だしね…。

一応、由緒正しいので、世良田東照宮は「三大東照宮」を名乗っている、ということなのだ。(何でも、久能山と日光を一直線に結ぶ位置、云々もHPには書いてあったけど、私、そういうの好きじゃ無いな…

 

世良田東照宮には数年前に参拝した。

二大東照宮に比べると明らかに格が違いすぎるが、まあ、G県の片隅にしてはそこそこ立派。

御駕籠の顔はめパネルが楽しかった…。(日光東照宮にも久能山東照宮にも顔はめパネル、結構あった…。東照宮一門、顔はめ好き…??

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前の駕籠かきさん、辛そう…。顔を出す部分はカットしました。写真を見返したら、これしかなかった…。

 

これで、私は三大東照宮を制覇したことになる。

わーい!嬉しい。

なんだろう。やっぱり、私も日本人だから「三大●●」がしっくりくるのよね。代表選手は3人まで!

しかし、他にも三大東照宮の名乗る神社はある…。

それどころか、日本国内には他にも100を超える東照宮があるのだ。

うーむ、一生かかってもすべてに参拝するのは無理だな。いや、コンプリートを目指す気はさらさらないけど!

 

江戸時代には、東照宮は500社とか700社とかあったらしい。

やっぱり、徳川家康のご威光はすごいな~。

司馬氏は、家康は「だまさない人」だと言う。

天才ではないが、義理堅さ、律儀さがすぐれていて、この性格に対する信用が天下を取らせた、としている。

しかし、晩年の「まるで死にものぐるいのように秀頼をいじめ、だまし、ついにその家を覆滅した」ことから「たぬきおやじ」になってしまった、と同情する。

 

東照宮にはだいたい、「家康公遺訓」が掲げてあった。

(遺訓自体はどうやら偽物の疑い濃厚らしいが…)

 

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

 

確かに司馬氏のいう「だまさない人」らしい、堅忍質直などっしりとした貫禄を感じるお言葉。

どんな人物だったのか、今となってはもうわからない。ただ、推測するだけ。

最後に行った、久能山東照宮で、富士山を眺めていたら、「徳川家康という人がいて、ここに眠っているんだな~」という妙な実感が今更湧いてきて、なんだか不思議な気分だった。

歴史と現代は地続きなんだな~。

 

ちなみに、司馬氏によると、徳川家先祖の乞食坊主は隣村の酒井家の後家さんともできて、子どもがうまれた。その子は徳川家の譜代大名の筆頭になった酒井家の祖だそうだ。

…世良田東照宮は、酒井家の発祥の地でもあるね…。

 

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御朱印ゲットだぜ!

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 浜松城にいた徳川家康。出世前なのかな…?

 

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

 

 「徳川家康」は2に収録。