睡紫庵文庫

身辺雑記をまじえた読書雑記です。

「凍」沢木耕太郎

日本には、山岳小説というジャンルがある。

唯川恵「純子のてっぺん」の解説を読んでいて、そういえばそうだったな、と気がついた。

私は長々と読書を趣味にしていて、さらに数年前から山にも時々登りに行っているが、山岳小説は一切読んでいない。

山岳小説の代表とされている新田次郎作品すらも全く読んでいない。

それは、本当に山登りを始めるまで、登山に興味がなかった(というより、むしろ嫌いだった)からなのだが、一作だけ読んだことがある。

それは、沢木耕太郎「凍」だ。

 

「凍」は山野井康史と山野井妙子(夫妻)によるヒマラヤのギャチュンカン北壁ルートでの登攀の様子を描いたノンフィクションだ。

私はもともとは、ノンフィクションはあまり読まない。どちらかというと、フィクションの方が好きである。

全く興味がないジャンル(山岳小説)に加えて、ノンフィクション、というダブルパンチにも関わらず、この本を読むことにしたのは、ひとえに作者が沢木耕太郎だったから、という理由だけであるが、沢木耕太郎の筆力は折り紙付きなので面白く読める確信があった。

果たして、読んでみれば、異様なまでの迫力に圧倒されてぐいぐい読み進め、読後は「すごい世界があるもんだ」と妙な敗北感を感じたのだった。

そのおかげで、これ以後数年間、山岳小説にまったく手を出すことはなかった。

沢木耕太郎の描く登山の世界があまりにも過酷だったので、恐ろしくなった私はうっかり敬遠してしまったのだ。

山登りを始めた最近は、ようやく少し読んでいるが、もっと早く読んでおけばよかった、と後悔することしきりである。

沢木耕太郎が筆力がありすぎるのが悪い…と思わなくもないが、選ぶのは自分である。恨むなら自分の小心さを恨むべきであろう。

 

 

「凍」で描かれるヒマラヤ登山の世界は、私がいつも楽しく登っている山登りの世界とは全くの別物だ。

そもそもギャチュンカンの標高は7952m

富士山よりさらに3200mも高い。富士山二つ分くらいの高さである。(それでも8000mに届かないため、登る人は少ないとか)

日本一が二つ!!もう、日本人の私には想像すらできないような高さだ。

そんな高所にもかかわらず、山野井夫妻は酸素を使わずシェルパもつけない。(アルパインスタイル)

富士山ですら、酸素は持って行った方がいいと言われているのに、その2つ分の山で酸素無し。それも、日帰りですむような距離ではなく、アタックに4泊5日かかる計画なのだ。

せめて富士山用の酸素くらい持って行った方がいいんじゃ…などと、読みながら余計な心配をしてしまう。そんなものあっても、焼け石に水なのだろうが。

さらに、その頂上にいたるアタックルートは2000m近い壁登りのクライミングだ。壁の途中でビバークしつつ頂上を目指す。

2000m壁を登るってどういうことなのだろうか…。私の大好きな谷川岳は1977mだが、ほぼ谷川岳分をずっと登るということか。

なんかもう、スケールが大きすぎてよくわからない。よくわからないが、壁というからには、登っている間中、ちょっと足を滑らせたりすると、一気に滑落する危険な場所であるということはわかる。

 

そんな登攀の下降時は、危険で過酷な状況が次から次へと降りかかってくる。

下降中にテントを張る場所も確保できず、わずか10cm程度の岩棚に腰掛けてのビバーク

雪崩に巻き込まれ、ロープを2本渡したブランコに腰を下ろした状態でのビバーク

空気の薄い高所に長くいたことにより、目が見えなくなった状況での下降。

極限状態での救助隊の幻影。

 

登山って恐ろしい。

山は危険だ。登山は命を落とすこともある場所だ。山をなめてはいけない。

そう言われているのは最もである。

読みながら、緊張のあまり奥歯をかみしめる。怖い。とにかく怖い。

ページをめくる手は止らないが、ずっと「マジ!?これはヤバいよ!」と貧相な語彙力の警報が頭を駆け巡っている。

 

しかし、そんな恐ろしい状況の下降の状況よりも、激しい衝撃を受けたのは、凍傷により指を切断することになったにもかかわらず(康史さんは手の指5本、右足の指5本全部。妙子さんは両方全部の指)、また山に登り出していく、という終盤だ。

 

登山にまったく興味の無かった当時の私は思った。

そんな状態になっても懲りないのか。普通、もう、やめるだろうに。というか、やめた方がいいよ。

 

登山とはなんと業の深い、恐ろしい世界なのだろうか。

命を危険にさらすような場所に、自ら率先して、高いお金を掛けて行くのだ。

憑かれたように山を目指す登山家は自分の理解が及ばない、まったく違う世界に住んでいる。

私は絶対にこの世界には足を踏み入れないようにしよう。というより、踏み入れたくない。

 

 

その数年後、その恐怖心が薄れた頃に、ぬるっと山登りの世界に片脚を突っ込んでしまい、たまに山岳小説も読むようになった今、久しぶりに「凍」を読み返してみた。

やっぱり恐ろしい。

「すごいな。私もいつかやってみたいな」とは決して思わない。

壁登りは私には遠い世界だ。

谷川岳で上るルートは天神平からで、決して一の倉沢には行かない。

 

でも、たとえ凍傷で指を失ったとしても、「また山に登ろう」と思う気持ちは理解できるようになったかもしれない。

頂上に立った時の景色と達成感をもう味わえないと思うと、寂しくて仕方がないだろう、と私も思うのだ。

 作中で山野井夫妻は言っている。

「無理かな」「無理だよね」

でも、無理かもしれないけれど、もう一度山に行きたい。

登山中毒と言えるかもしれない、その欲望は、私も理解できるようになってしまった。

 

もしかすると、また数年経つと、恐ろしいから絶対にやらない、と思っているライミングに挑戦しているのかもしれない。

その時「凍」を再度読み返したら、また違う感想を持つのだろう。

そんな日は来ない、と今は思っているのだが…。

 

凍 (新潮文庫)

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