「白夜行」東野圭吾
本邦でも近年は便器の洋式化が急速に進んでおり、公共施設のトイレでも相当の割合が洋式便器になっている。
そして、本場(?)の西欧ではどうだか知らないが、日本の洋式便器には蓋がついている。
その蓋については、閉めるべきだ、いや、開けといてもいいんじゃないかと喧々諤々の議論があるのではないかと推察するが、私個人としては、公共施設の洋式トイレの蓋は開けておいて欲しいのだ。
なぜならば、「もしかしたら、便座の中に青酸ガスが入ってるかも」との不安がどうしてもぬぐえないからだ。毎度、ものすごくドキドキして蓋をあけている。
東野圭吾「白夜行」の中で、探偵の今枝氏はこの方法で殺害されている。
帰宅し、閉まっていた洋式トイレの蓋を開けたところ、中に入れられていた青酸ガスを吸い込んでしまい、彼は殺されるのだ。
ミステリーの殺人方法として、青酸カリはメジャーすぎる毒物だが、ガスにして吸わせる、というパターンは、私はこの小説でしか読んだことがない。
飲み物に混ぜて殺す方法が大半だ。多分、ホームズ先生もポワロさんも金田一君(孫)もコナン君もそんな事件は解決していないと思う。
しかし、作中で、青酸カリは水に溶けるか、と聞かれた典子(薬剤師)は言う。
「溶けるけど、たとえばジュースに仕込んで飲ませるというような方法を考えているんだとしたら、耳かき一杯とか二杯じゃだめだと思うわよ」
「ふつうなら一口飲んで変だと思うからよ。舌を刺激するような味なんだって」
「青酸カリ自体は安定した物質なのよ。それが胃に入ると、胃酸と反応して青酸ガスを発生させる。それで中毒症状がおきるわけ」
この薬剤師のアドバイスにより、洋式トイレに青酸カリと硫酸を入れて蓋をし、青酸ガスを発生させ、それをターゲットに吸わせる、という方法が編み出されたのだ。(トイレの換気扇を回して、漏れ出た青酸ガスの臭いで気づかせない、という念入りの工夫もしている)
そんなのすぐに隙間から溢れ出ちゃって無理すぎるわ、と思ったりもするが、作中ではターゲットの帰宅直前に仕掛けているので、そのあたりのフォローも万全だ。(ちゃんと尾行している)
なんと、今までのミステリーの常識を覆す内容ではないか。
青酸カリと言えば猛毒で、飲み物に混ぜられた状態で一口でも口にすれば、確実に死んでしまうものだと思っていた。それが、致死量としては耳かき一杯分くらいの量が必要
だとは驚きである。
作中でも書かれているが、切手の裏に塗る程度では全然致死量に満たないのだそうだ。多分、カップに塗る方法でも致死量に満たないだろう。
また、ミステリーではワインに混入して飲ませるパターンが多いような気がするが、ワインは香りを楽しんでから少しずつ味わう飲み方をするもので(それはソムリエだけ?)、いきなりごくごく飲み干したりしないので、青酸カリには最も適さない飲み物のような気がする。
ターゲットが、ワインに口をつける前に香りをかいで「ん?…アーモンド臭が…?」と気づき、失敗する可能性が高すぎるではないか。
余談だが、毎度、アーモンド臭ってどんな臭いやねん、と思う。平均的日本人の大半は知らないと思うが、警察や探偵の皆さんは、多分、「これがアーモンド臭です」という何かの研修を受けているのであろう、と自分に言い聞かせている。
ごくごく一気にいく、というポイントのみに絞って考えれば、多分生ビールが一番だと思う。それも、夏の暑い日。
しかし、寡聞にして、私は生ビールに青酸カリを入れた殺人が出てくるミステリー小説を知らない…。あるのかもしれないけど。
それにしても、この作品で青酸カリ殺人の限界(?)が描かれた訳だが、その後のミステリー小説でも相も変わらず青酸カリは飲み物に混入させたり、何かに塗られたりしている。
多くのミステリー作家がこの作品を読んでいるはずなのに、どうして青酸ガスの方面に舵を取らないのか不思議である。洋式トイレトリック以上のトリックが思いつかないのかしら。
なんとなく「洋式トイレに毒ガスを詰め込むなんて!」という、感覚的なうさんくささを感じる方法だからだろうか。
そういえば、ミステリー小説はガス系の殺害はあまり好まれないような気がする。にくい特定の相手のみの殺害が主流のミステリーには、ガスは広範囲に広がる感じで、なじまないのかもしれない。
しかし、このやり方はあまりに斬新で、確実に殺されてしまう危険な殺人方法だ、と私の記憶に強烈に焼き付いてしまった。
そして、公共施設のトイレとかだと、私がうっかりターゲットよりも先に便座の蓋を開けてしまう事態が発生するかもしれない。(むしろ、その場合は、不特定多数を狙ったケースだろうか)
閉まった洋式便座の蓋を見る度に、息を止めてそーっと開けるようにしている。
私の精神衛生上よくないので、できれば公共施設の便座の蓋はあけておいていただきたいのだ。
そんな私だが、家の便座の蓋は閉める派だ。
うちのトイレに青酸ガスを入れられたら、もうしょうがない。諦めるしかない。
我が家のトイレの便座はかなり前から電気であったかくなる仕様なので、電気代節約の観点から蓋は閉めているのだ。
かつて、新井理恵「×~ペケ~」を読んで「何はなくとも便座カバー」に深く共感したが、そんな時代はとっくに過ぎ去った。
暖かい便座を手に入れた私は、数十円(?)の電気代の節約のために、ガスが詰められているかもしれない新たな危険性を見て見ぬふりをしているのだ。
やっぱり、家のトイレも開けるようにした方がいいのかな。少し、考え直してみようと思う。
ものすごく昔に書いたもの。「何はなくても便座カバー」
「かわいい京都御朱印ブック」西村由美子
私は数年前から御朱印収集も趣味にしている。
集め始めたきっかけを話し出すと長くなるのだが、簡単に言うと、NHK大河ドラマ「平清盛」にはまったからだ。
何かというと低視聴率大河ドラマとしてあげられる作品だが、私は大好きだった!なんで人気がでなかったのか、未だにわからない。
美しすぎる待賢門院璋子(壇れい)と西行(藤木直人)のなんとも言えないすれ違いとか、悪左府と呼ばれた藤原頼長(山本耕史)やら、「平家にあらずんは人にあらず」の平時忠(森田剛)やらの怪演とか、平重盛(窪田正孝)の白い直衣が半端なく似合う様子とか、今でも語り出したら止まらないくらいだ。
(北条政子(杏)も建春門院滋子(鳴海凛子)も崇徳上皇(井浦新)も良かった!源頼朝(岡田将生)も他にも…!!言い足りないので、ここらでやめておくが)
当時、あふれる思いを抑えきれず、京都の六波羅蜜寺(平清盛像がある。ついでに空也上人像もある)に出かけたところ、けっこうな人数が御朱印を貰うために並んでいる列を見かけ「ここで御朱印を貰わないなんて、大河ドラマファンの名が廃る!」と、勢いに任せて自然と列に並んでしまったのだ。
六波羅蜜寺ではものすごい熱量で御朱印を貰ったが、平清盛への愛に対する熱量であったため、その後、御朱印収集はたまに貰う程度で、落ち着いていた。
しかし、数年度の平成27年。
友人マーサ(御朱印集めの先輩)に「御朱印帳もかわいいのがたくさんあるよね」と言われて、「確かに…」と深く頷いた。
「でも、マーサ。私、ちょこちょこ御朱印貰ってるけど、全然1冊が埋まる感じがしないよ。次の御朱印帳のことは考えられない状態だよ」
「そう。私もそう。だから、ここらで一発、本場に乗り込むのはどうかね」
私の言葉に、マーサは深く頷き、重々しく告げた。
「京都で御朱印を貰いまくるのはどうかな」
「京都…!!大本場!!」
かつて何かの本で「京都には全部で寺社がいくつあるのか正確な数字はわからない」と書いてあった記憶がある。(本当かな?)そのくらい、寺と神社にあふれる街、京都。
しかも、意外と街が小さくコンパクトにおさまっているので、移動時間が少なく、あちこち何カ所も回れるのだ。ビバ、観光都市!
話はすぐにまとまり、行きの新幹線の中で互いに行きたい寺社のセレクトを発表する。
すると、二人のカバンの中から同じ本が出てきた。
それが「かわいい京都御朱印ブック」である。
友達だから、好み似てるもんね…。想定しておくべき事態だった、と後悔したが後の祭り。
二人で同じガイドブックを買うという非効率極まりない状態になったが、事前に同じ本を見ているので、ルート設定はサクサク進んだ。
「この八咫烏シリーズは行っときたいね」
「私もそう思ってたー」
「この字カッコいいね」
「私もそう思ってたー」
「京都御朱印ブック」には私たちの好みにドンピシャな御朱印が沢山掲載されていて、私とマーサの欲望を駆り立てる。
御朱印って、本来は納経して、仏との結縁の印に頂くものらしい…。
現在、私とマーサには煩悩を呼び覚ますものになっているような気がする。いいのか、それで。いいのだ、それで。
2泊3日の行程で、京都の有名どころの社寺はほとんど行かず、「京都御朱印ブック」に掲載されている割とマイナーな寺社ばかりを巡りまくる。目的はそれのみなのだ。
結果、いただいた御朱印の数、22個。頑張った。
おかげで、初めて六波羅蜜寺で購入した御朱印帳がすべて埋まった。
さすが大本場、京都。狭い街にぎちぎちに寺社が詰まっている。
「嬉しすぎる…。こんなバラエティに富んだ御朱印を集められたのも「京都御朱印ブック」のおかげだよ」
「やっぱり、先達はあらまほしきものだねえ。ありがたや」
二人で「京都御朱印ブック」に感謝する。
ちなみに、マーサは御朱印をいただくマナーとして、おつりの無いように大量の百円玉を持参していたが、すでにそれは1日目で使い果たしていた。
ついでに、お賽銭も「御朱印で納付するから…ね」と途中から相場がガタンと落ちていた。(私は最初からお賽銭の最低相場(?)である)
この時頂いた「京都御朱印ブック」掲載の御朱印をいくつか載せてみる。
動物シリーズ
女子なので、動物のハンコが押されると「かわいー」と嬉しくなる。とりあえず、何でも感動は「かわいー」で表現するのだ。
熊野神社と言えば、八咫烏。サッカーファンにはおなじみの足が3本のカラスだ。
本宮は和歌山であるが、京都には分社(?)が3つもあり、いずれも八咫烏印を採用している。
これは二人で「絶対に3つ揃えよう」と、完全に意見が一致したものだ。
新熊野神社は能面の印もあり、こちらも良い感じ。
●八坂庚申堂(金剛寺)
ちょっとわかりづらいが、「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿の印である。
毛玉っぽくて、ジ●リ映画に出てきそうな感じがかわいい。
余談だが、私は庚申講が好きである。
その人が眠っている間に、三尸の虫が悪行を閻魔大王に言いつけに行く日だから、一晩中寝ずに飲み食いす、という「えっ、そんな屁理屈…。単に一晩中飲み明かしたいだけなんじゃ…」と思ってしまうところが、大変好ましいと思っている。
●千本ゑんま堂
閻魔大王様というのはとても珍しいと、コレクター魂を揺さぶられ、絶対に行こう、とこちらも二人の意見が完全に一致した。
ちなみに、こちらのご本尊は大王様の像で、ろうそくに照らされる厳ついお顔の前に、欲にまみれた我が身をさらすと、完全にびびってしまい「すみません。すみません」とおもわず謝ってしまった。
やっぱり三尸の虫の報告を阻むために、庚申の日は徹夜した方がいいのだろうか。真剣に悩む。
余談だが、閻魔大王といえば、京都では六道珍皇寺も有名である。
小野篁が夜な夜な冥界に下りたという井戸がこのお寺にある。
期間限定(?)で紺地に金文字の「閻魔大王」の御朱印も頂けるのだが、この時は「小野篁」の御朱印を頂いてしまった。今から思えば「閻魔大王」を頂いておくのだった…。
つづいて植物シリーズ
平野神社は京都では桜の神社で有名である。でも、桜しかないので、観光客にはあまり知られていないと思う。
実は、北野天満宮は「京都御朱印ブック」に掲載されていなかった。
行った時期が梅の時期だったので、ルートの途中にあったこともあり「御朱印目的じゃないところも行ってみようよ」と、たまたま寄ってみたのだ。
すると、はからずも梅の御朱印。
北野神社の桜と北野天満宮の梅が並び、私はひとりで大喜び。(マーサはそれほど喜んでいなかった)
この見開き、華やかでいいな~。
北野天満宮の飛梅伝説が、私は結構好きである。ついでに梅酒も好きである。
山城国一之宮。
下鴨神社は緑で押してくれるので、鮮やかでキレイ。
ちなみに、前にブログのどこかにも書いたと思うが、私は源氏物語の中で「葵の上」が最も好きである。ついでに徳川家もキライでは無い。
「やっぱり、上賀茂神社。ちょっと遠いけど、ここは外すわけにはいかない」と、またしても私とマーサの意見は完全に一致した。某国の首相と大統領のように。(byサンドウィッチマン伊達ちゃん←わかりづらいネタですみません。どうしても書きたくなってしまった)
この時、上賀茂神社で購入した「雷除け御守」は私の登山のお供になっている。天下の上賀茂神社の御守だ。今のところ、雷に遭遇したことはないので、きっとこの御守のおかげであろう。
上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社」という、ということを、この時初めて知った。
この旅のあと、私とマーサの御朱印熱は一気に上昇し、あちこち巡り歩くことになる。
京都御朱印巡りがとても楽しかったのだ。
そして、現在、「御朱印帳が埋まらない」などと言っていたことを遠い目で思い出すくらいに、かなりの冊数を重ねている。
しかし、冊数だけならば、あちこち巡ったような気がしているが、行ってみたい寺社は尽きない。
京都も、この時に22カ所も巡ったが、断腸の思いで断念した寺社が沢山あるのだ。いくらコンパクト京都と行っても、限界はある。
最後に、今後、「京都御朱印ブック」に掲載されていて、是非行きたいと思っている寺社を2つあげたい。
その1 廬山寺
廬山寺創建の元三大師は鬼に化けて疫病神を追い払ったとされる伝説があり、鬼の朱印(角大師)を押して頂けるらしいのだ。
私は厄除けのお札に書かれている角大師の図柄がとても好きなので、是非とも頂きに行きたいと思っている。
その2 晴明神社
ここには実は、何度か行っている。
が、その際に「納経印」と書かれていたので「私、お経書いてきてないよ」と、そのまま帰った苦い思い出がある。
あの頃は、御朱印を集め始めたばかりだったので、何故かびくびくしていたのだ。
ちなみに、桔梗が咲く時期限定の「桔梗守り」もステキだ。
秋頃には、是非ともまた行きたいと思っているのだが、どうだろう…??
その際には、鞍馬山の木の根道を通って貴船神社まで歩く、義経ごっこをする予定である。ちなみに、大河ドラマ「平清盛」では、義経は神木隆之介だった!
「凍」沢木耕太郎
日本には、山岳小説というジャンルがある。
唯川恵「純子のてっぺん」の解説を読んでいて、そういえばそうだったな、と気がついた。
私は長々と読書を趣味にしていて、さらに数年前から山にも時々登りに行っているが、山岳小説は一切読んでいない。
山岳小説の代表とされている新田次郎作品すらも全く読んでいない。
それは、本当に山登りを始めるまで、登山に興味がなかった(というより、むしろ嫌いだった)からなのだが、一作だけ読んだことがある。
それは、沢木耕太郎「凍」だ。
「凍」は山野井康史と山野井妙子(夫妻)によるヒマラヤのギャチュンカン北壁ルートでの登攀の様子を描いたノンフィクションだ。
私はもともとは、ノンフィクションはあまり読まない。どちらかというと、フィクションの方が好きである。
全く興味がないジャンル(山岳小説)に加えて、ノンフィクション、というダブルパンチにも関わらず、この本を読むことにしたのは、ひとえに作者が沢木耕太郎だったから、という理由だけであるが、沢木耕太郎の筆力は折り紙付きなので面白く読める確信があった。
果たして、読んでみれば、異様なまでの迫力に圧倒されてぐいぐい読み進め、読後は「すごい世界があるもんだ」と妙な敗北感を感じたのだった。
そのおかげで、これ以後数年間、山岳小説にまったく手を出すことはなかった。
沢木耕太郎の描く登山の世界があまりにも過酷だったので、恐ろしくなった私はうっかり敬遠してしまったのだ。
山登りを始めた最近は、ようやく少し読んでいるが、もっと早く読んでおけばよかった、と後悔することしきりである。
沢木耕太郎が筆力がありすぎるのが悪い…と思わなくもないが、選ぶのは自分である。恨むなら自分の小心さを恨むべきであろう。
「凍」で描かれるヒマラヤ登山の世界は、私がいつも楽しく登っている山登りの世界とは全くの別物だ。
そもそもギャチュンカンの標高は7952m。
富士山よりさらに3200mも高い。富士山二つ分くらいの高さである。(それでも8000mに届かないため、登る人は少ないとか)
日本一が二つ!!もう、日本人の私には想像すらできないような高さだ。
そんな高所にもかかわらず、山野井夫妻は酸素を使わず、シェルパもつけない。(アルパインスタイル)
富士山ですら、酸素は持って行った方がいいと言われているのに、その2つ分の山で酸素無し。それも、日帰りですむような距離ではなく、アタックに4泊5日かかる計画なのだ。
せめて富士山用の酸素くらい持って行った方がいいんじゃ…などと、読みながら余計な心配をしてしまう。そんなものあっても、焼け石に水なのだろうが。
さらに、その頂上にいたるアタックルートは2000m近い壁登りのクライミングだ。壁の途中でビバークしつつ頂上を目指す。
2000m壁を登るってどういうことなのだろうか…。私の大好きな谷川岳は1977mだが、ほぼ谷川岳分をずっと登るということか。
なんかもう、スケールが大きすぎてよくわからない。よくわからないが、壁というからには、登っている間中、ちょっと足を滑らせたりすると、一気に滑落する危険な場所であるということはわかる。
そんな登攀の下降時は、危険で過酷な状況が次から次へと降りかかってくる。
下降中にテントを張る場所も確保できず、わずか10cm程度の岩棚に腰掛けてのビバーク。
雪崩に巻き込まれ、ロープを2本渡したブランコに腰を下ろした状態でのビバーク。
空気の薄い高所に長くいたことにより、目が見えなくなった状況での下降。
極限状態での救助隊の幻影。
登山って恐ろしい。
山は危険だ。登山は命を落とすこともある場所だ。山をなめてはいけない。
そう言われているのは最もである。
読みながら、緊張のあまり奥歯をかみしめる。怖い。とにかく怖い。
ページをめくる手は止らないが、ずっと「マジ!?これはヤバいよ!」と貧相な語彙力の警報が頭を駆け巡っている。
しかし、そんな恐ろしい状況の下降の状況よりも、激しい衝撃を受けたのは、凍傷により指を切断することになったにもかかわらず(康史さんは手の指5本、右足の指5本全部。妙子さんは両方全部の指)、また山に登り出していく、という終盤だ。
登山にまったく興味の無かった当時の私は思った。
そんな状態になっても懲りないのか。普通、もう、やめるだろうに。というか、やめた方がいいよ。
登山とはなんと業の深い、恐ろしい世界なのだろうか。
命を危険にさらすような場所に、自ら率先して、高いお金を掛けて行くのだ。
憑かれたように山を目指す登山家は自分の理解が及ばない、まったく違う世界に住んでいる。
私は絶対にこの世界には足を踏み入れないようにしよう。というより、踏み入れたくない。
その数年後、その恐怖心が薄れた頃に、ぬるっと山登りの世界に片脚を突っ込んでしまい、たまに山岳小説も読むようになった今、久しぶりに「凍」を読み返してみた。
やっぱり恐ろしい。
「すごいな。私もいつかやってみたいな」とは決して思わない。
壁登りは私には遠い世界だ。
谷川岳で上るルートは天神平からで、決して一の倉沢には行かない。
でも、たとえ凍傷で指を失ったとしても、「また山に登ろう」と思う気持ちは理解できるようになったかもしれない。
頂上に立った時の景色と達成感をもう味わえないと思うと、寂しくて仕方がないだろう、と私も思うのだ。
作中で山野井夫妻は言っている。
「無理かな」「無理だよね」
でも、無理かもしれないけれど、もう一度山に行きたい。
登山中毒と言えるかもしれない、その欲望は、私も理解できるようになってしまった。
もしかすると、また数年経つと、恐ろしいから絶対にやらない、と思っているクライミングに挑戦しているのかもしれない。
その時「凍」を再度読み返したら、また違う感想を持つのだろう。
そんな日は来ない、と今は思っているのだが…。
「ハイジ」シュピリ(2回目)
山に行くときなどは、各地の道の駅や高速のサービスエリアに寄ったりするのが楽しみだ。
地元の銘菓や特産の野菜を買ったりするのが好きなのだ。
例えば秋に谷川岳に行ったりすれば、G県が誇る幻のりんご「ぐんま名月」を購入したりする。隣のストロベリー王国に行けば、餃子やかんぴょうを買ったり、長野方面ではそばやみすず飴、山梨方面ではほうとうや信玄餅を購入。
地元感があるものがいろいろ揃っていて、購入欲がそそられるのだ。女は買い物とおしゃべりが好き!
そんな道の駅やサービスエリアには、お土産や野菜直売所に加えて、結構な割合で焼きたてパン店があることが多い。
パンなら地元でも売っているので、わざわざ旅先で買う必要性をあまり感じないので、私はあまり利用しない。たまに朝食として買うことがあるくらい。
しかし、一緒に山に行くことの多いノムさんはパン屋が大好き。「このパンおいしそう」と言って、買って帰ったりしている。
他の友人にも「パン、買って帰っちゃう」という人は割と多い。
そして、ノムさんをはじめとした「焼きたてパンを旅先で買う派」は概ね口を揃えてこういう。
「固いドイツパンが好き」
「しっかりしていて満足する」「かめばかむほど味が出る」などと、するめに対するかのような感想を言い合い、「やっぱそうだよねー」「わたしもー」と共感し合っているのだ。
いやいやいや。
私は共感できない。
パンは白くて柔らかいものが、上等でおいしくて最高なのだ。
だって、ハイジがそう言っていたから!
黒パンは固くてペーターのおばあさんは食べられないんだから!
「ハイジ」のこのエピソードは、「クララが立った!」と共に、私の世代ではみんな知っていると思う。
ハイジの友人、ペーターのおばあさんは固い黒パンをかむことが大変であまり食べられず、いつも「あたしにゃかたすぎて」と言っていた。
それを知っていたハイジはフランクフルト(都会)のクララの家で、おばあさんへのお土産にしようと、毎日せっせと白パンをためていたのだ。
いろいろあって、フランクフルトから山に帰るとき、ハイジはカゴいっぱいの白パンをおばあさんへのお土産に持って帰る。(ハイジがため込んだ白パンはロッテンマイヤーさんに見つかって捨てられてしまったので、持って帰った白パンはクララがくれた新しいもの)
おばあさんは「まあ、おまえ、まあ、おまえってば!こんなありがたいものを持ってきてくれて!」と大喜び。さらに「だけど、何よりありがたいのは、おまえのいることよ!」とハイジの髪やほほをなでるのだ。
ハイジは本当に良い子だ!
ハイジのアニメをみた私は「ハイジのようにお年寄りにはやわらかい白パンをあげるような子どもになろう」と感動の涙をぬぐいつつ、強く決意したのだった。
そして、私の頭の中には、黒パン=固くてまずいもの 白パン=柔らかくて高価なもの という図式が完全にインプットされてしまった。
食卓にヤ●ザキのロールパン(8個くらいが袋に入っているやつ)が登場するたびに、「白パンが食べられる私って幸せだ…」と自らの幸せをかみしめていた。(このパンがアニメの「白パン」のビジュアルに似ていた)
しかし、不思議なことに、自分の身の回りでは「黒パン」を見かけない。食パンも菓子パン(チョココロネとか2色パンとか、当時は甘い系のパンがメインだった)も、みんな中身は白くてやわらかい白パンだった。
多分、ハイジは昔の話なので現代は固くてまずい黒パンは無くなってしまったのだろう、と自分を納得させていたときに、給食の献立に発見してしまったのだ。
黒糖パン
これだ!
これが黒パンなんだ!
今は白パンが主流だが、かつての貧しい時代を子ども達に忘れさせないように、給食という場では、かの黒パンを出しているのだ。
いうなれば、時々、給食に麦飯が出される日があったようなものだ。(大根飯はさすがにやりすぎなので、麦飯くらいなら、と教育的配慮で提供されていると当時は思っていた。正しいかどうかは知らない。ちなみに私は「おしん」も視聴している)
初めて目にした黒パンを、私はおそるおそる手でちぎってみた。
普通にちぎれた。
ちぎった黒パンをそっと口にしてみる。
こころなしか、いつものコッペパンよりも固い気がする。
これが、おばあさんが固くて食べられてないと言っていた黒パン…!!
私は健康で歯も丈夫だから普通に食べられる。健康と若さに感謝しつつ食べる。
周りの同級生たちは「黒糖パンは甘いからおいしい」などと言っている。
君たちは、これが高齢者には固くて食べられないパンだということを知らないから、そんなことを言えるのだ、と心の中だけで猛反発していた。
バカめ…。
当時の自分の胸ぐらをつかんで「それは黒パンじゃない!」とぐらぐらと揺さぶりたい気持ちでいっぱいだ。全然固くなかったではないか!
しかし、子どもの思い込みは強いもので、若干の疑問がよぎりはしたものの、本当にそう信じていたのだ。だって、まわりに黒パンがそれしか無かったから!
この間違いに気づいたのはいつくらいだったか…。
少なくとも自分でお金を稼ぐようになってからだ。
どこだったか記憶は曖昧だが、確か、ちょっとしゃれたレストランとかで、パンを選択した時に「おいしいけど、固いなー」と思い、ふと気づいたのだ。(ちなみに、ご飯かパンを選べるときにはだいたいご飯を選ぶ。あまりお腹が空いていない時に、たまーにパンを選択する)
この固さ!もしやこれが、黒パンなのでは…。
これかー。エウリカー!
明らかに給食の黒糖パンとは違う味と見た目に、長年の間違いを指摘され、非常にもの悲しい気持ちになった。
ちなみに、黒パンはライ麦で作るから黒いらしい。小麦粉で作ると白パン。
長いこと黒パンを間違えていたことは判明したが、私は今でも忠実に「黒パン=固くてまずい」を信じている。
それなので、やはり、パンを買うときは、白くて柔らかいパンを選択する。
私の中では「ヤ●ザキ ダ●ルソフト」が最高級品だ。だって、耳までやわらかいのだ!
私は「食パンの耳が好き」という人種とはわかりあえない。
(ちなみに、私の感触では「ドイツパンが好き」人種=「食パンの耳が好き」人種 だ。統計は取っていないが、多分正しい)
しかし、一度、本場のドイツパンをがっつり食べてみたいな、とも思うのだ。
私の歯が丈夫なうちに、ドイツに行ってみたいものだ。
そして、牛乳(本格的にするならヤギ乳)に浸しながら、やっぱりおばあさんには食べにくいパンだなあ、と実感したい。
あ、本場のチーズもたべてみたいし、本当のアルプスも見てみたいので(登るのは無理?)、やっぱり、スイスに行ってみたいなあ。
ちなみに、小学生時代の私はハイジにあこがれて、家のコンロでチーズをあぶって食パンにのせて食べていた。(ハイジあるある)
アニメみたいにとろけないことが不満だった…。
あれは、チーズの種類が悪かったのか、アニメの演出だからあんな風にとろけるのか、未だにちょっとよくわからない…。
私が持っているのはこの本。
アニメ版。
アマゾンで検索したら、何故かこの回だけ出てきた。
フランクフルトから帰る回だ。
「sol×solがおしえる 多肉植物育て方ノート」松山美紗 監修
冬になると、なんとなく部屋が狭く感じる。
ベランダに出しっ放しにしている多肉植物たちを室内に入れるからだ。
1鉢2鉢ならたいしたことないが、小さい鉢がごちゃごちゃと20鉢くらいある。けっこうな量なのだ。
多肉植物はとにかく種類が多く、世界中にコレクターがいるらしい。コレクターってどこにでもいる…。コレクターの世界の奥の深さよ。
私は別に多肉植物コレクターではないが、ちょこちょこ買っているうちに、だんだん増えてしまったのだ。
私が多肉植物を育て出したのは、多分10年以上前だ。つきあいで「寄せ植え教室」に参加したところ、寄せ植える植物が多肉植物だったのだ。パンジーとかの寄せ植えだと思ってたのに…。
初めて多肉植物を手にして「何じゃコレ…。葉っぱが肉肉しい…」と不信感いっぱいだったのだが、できあがった寄せ植えを毎日眺めているうちにだんだんと愛着が湧いてきた。
ハムっぽい感触の葉っぱは、しっとりとして手になじむし、ぷりんぷりんした見た目もかわいい。
そして、何より水をこまめにやらなくても全然枯れない。多肉植物は葉に水分をためる植物なので、多少、水やりを忘れたところで問題ないのだ。ラクダと同じだ。
しばらく「けっこういい寄せ植えじゃないか~」と眺めていたところ、何やら葉っぱがぐんぐん伸びていく。
「生長早いんだな。大きくなれよ~(by●大ハム)」と楽しく見守っていたが、多肉ちゃんは茎をどんどん伸ばし、葉の密度はすっかすかのひょろひょろに。
「これは…生長じゃないかもしれない…」とようやく気づき、ネットで検索して、この状況が日光不足の「徒長」であることを知る。
アカンやん!窓際に置いといたのに!
ひょろひょろに伸びた多肉ちゃんをあわてて外に出してみたが、時すでに遅し。そのまま、半分ほどがご臨終した。
ごめん…。知識が無いって、許されない時もあるのだ。
この反省を活かし、多肉ちゃんの実用書を何冊か購入し、知識の習得に努めた。
その中で、一番お気に入りの本が「sol×solがおしえる 多肉植物育て方ノート」だ。
(ちなみにsol×solとは、多肉諸物専門のお店だ)
何がいいって、掲載されている写真が非常にお洒落なのだ。ステキすぎる。
すでに多肉植物を「かわいこちゃん」ととらえることのできる私の目には、アイドル名鑑であるかの様に見えてくる。いろいろな多肉ちゃんの写真がずらりと掲載。
さらに、掲載されている寄せ植えが、ものすごく可愛い!そのかわいい寄せ植えが置かれた部屋の写真は、インテリア雑誌そのものだ。
す…ステキ!
「多肉植物育て方ノート」には寄せ植えの作り方もしっかりと書かれている。
早速、本を片手に、葉差しで増やした多肉ちゃんたちで寄せ植えを作ってみたりする。
割と簡単に良い感じに出来る。ほれぼれ。
多肉ちゃん、できる子や…。
私のようなずさんな人間でも、そこそこな寄せ植えができてしまう。ポテンシャルが高い。
いそいそと出来上がった寄せ植えを窓際において、重大な事実に呆然とする…。
徒長するかも…。
多肉ちゃんは日光が好き。日光不足だと、あっという間に徒長してしまうのは、一番最初に経験済みだ。
屋外に置けば多分、ぷりぷりのまま良い感じに生長してくれるだろう。
しかし、ステキに出来上がった寄せ植えは、インテリア雑誌みたいにお洒落な感じに室内に置きたいのだ。私のごちゃごちゃな部屋が多肉ちゃんの寄せ植え一つでお洒落になる訳が無い、という声はちょっと置いておく。
本当なら、窓際じゃ無くて、本棚とかお風呂場とかの水回りあたりに置いてみたりもしたい。しかし、そこは日光が足りないのだ。もっと光を…!!(byゲーテ)
とりあえず、窓際においてしばらく愛でることにする。あまり長期間じゃなければ大丈夫だ。
徒長の兆しが見えたら、室外に出して、場合によっては切り戻しをして形を戻す。
めんどくさい…。
結局、いくつか作って友達にあげたりしたが、最近はあまり作っていない。作っても、屋外に放置している。
マメじゃ無い私を許して…。でも、私は多肉ちゃんの「水やりしなくても大丈夫」というずさんなところに惚れたのよ。しょうがないよね。
「多肉植物育て方ノート」にはいろいろな種類の多肉植物が掲載されている。
しかし、それでも図鑑としては全く足りていない。我が家の多肉ちゃんたちでも掲載されていないものがかなりある。
冒頭にも書いたが、多肉植物はとにかく種類が多いのだ。
「えっそれも多肉ちゃん?」と言いたくなるようなものも沢山ある。ただの球根からちょろーんと葉っぱが生えているだけのものとか。←こんな変な植物なのに、買うとかなりいいお値段がする。レア?
また、名前が知的でロマンチックなものが多く、「かーーっ名前つけた人、センス良すぎる!」とうなってしまうことも多数だ。
「月兎耳(つきとじ)」は見た目が兎の耳みたいだから。全体に細かい毛がふわふわしていて、先が黒いのだ。
すばらしいネーミング!「月」が付いているところがセンスの良さだ。
「朧月」「ブロンズ姫」も好きな名前だ。
ちなみに、我が家の朧月は、初めて作った寄せ植えから生き残っている長老だ。
私のテキトーな世話にも負けず、ものすごく丈夫なのだ。このまま長生きして欲しい。
また、花が綺麗なものが多い。
奇妙な形態の極みだと思うリトープス属の花はけっこうお気に入りだ。
リトープスは植物には決して見えない。強いて言うならキノコに近いような気がする…。
最初は「キモチワルイから、私はリトープス属には手を出さない」と決めていたが、今では「リトちゃん、かわいい模様だね」と、ぴとぴとお触りしながら話しかけている自分がいる…。人って変われるものだなあ。
最後に、今、一番気に入っている多肉ちゃんの写真を載せておく。
「ビーンズレーマニー」である。
「多肉植物育て方ノート」に載っていないし、私が持っている他の本にも載っていないので、イマイチ詳細はよくわからないが、ころころした感じが気に入っている。
伸びすぎているので、そのうちカットするつもりだ。
冬になると、多肉ちゃん達が室内で圧倒的な存在感を放っているので、やはり、どうにも気になってしまう。
そして、ついつい葉差しで増やしてしまったりする。(多肉植物は簡単に増やせる。葉っぱを取って、土に転がしておけばよい)
春になったら、また寄せ植えを作ろうかな。かわいく仕上げて、お洒落なインテリアに再挑戦したいものだ。
今日、「多肉植物育て方ノート」の写真を、またじっくりと眺めてしまったので、気持ちが盛り上がっている。
愛いヤツめ…。ふふふ…。
「あやうしズッコケ探検隊」那須正幹
山を歩いているときに、ユリが咲いていると、私は何となく安心する。
何故か。
それはユリ根は食べられるからだ。
これで、いざという時(山で遭難した時?)も、最悪食料は確保できる。
スーパーでユリ根が売られているのを見るときも、茶碗蒸しの中にユリ根を見つけたときも「ユリ根は食べられる!」とほっこりと安心するのだ。
妙なところにだけ、強い防衛本能を発揮する私は、非常事態に役に立つものを発見すると「大丈夫だ!」と力強く自分に言い聞かせてしまうのだ。子どもの頃に「備えよ常に」がモットーのガール●カウトに入っていたからなのだろうか。
ユリ根が食べられる、ということは、小学生の頃に読んだ「あやうしズッコケ探検隊」で学んだ。
ズッコケ3人組シリーズは、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの小学生3人組が様々な活躍をする児童書だ。宝探しをしたり、事件を解決したり、学校新聞を作ったり。
私が小学生の頃は大ベストセラーシリーズで、どこの本屋さんでも平積みで売られていた。当時、私も大好きで、シリーズ全作ではないが、かなりの冊数を本棚に並べていた。
今回、久しぶりに開いてみたら、表示カバー折り返しにある既刊シリーズ一覧のそれぞれのタイトル横に、鉛筆で「○」「△」「×」が書かれていた。おそらく、「○」は持っている本、「△」は図書館で借りて読んだ本、「×」はまだ読んでいない本、であろう。
小学生当時から、変にマメな私。コレクター魂から、シリーズ全作読破を目論んでいたのであろう。(多分、達成した)
ちなみに、現在の私は、家にある本のデータベースを作っている。シリーズものはデータベースで全巻所持しているかは常に確認出来る状態だ。三つ子の魂百までとはよく言ったものだと思う。
「あやうしズッコケ探検隊」は、3人組が無人島に漂流する、という内容で、シリーズ中の私のナンバー1作品。
無人島漂流モノは私が好きな小説のジャンルだ。
たいした道具も無い中で、どうやって食料や日常生活で必要なものを確保していくのか。知識と知恵を総動員しての無人島生活。
少年たちが(残念ながら少女がいることはあまりない)、工夫を凝らし、協力し合って、無人島での生活を送っていく様子に、「私だったらこうするな」と物語に参加している気持ちで読み進めていく。
火起こしで漂流した仲間が困っていたら、すぐに「メガネで光を集めて着火させるんだ」と提案するのにな、とか。…こういう話にはメガネキャラが必ずいると決まっているのだ。
さて、「あやうしズッコケ探検隊」である。
3人が流れ着いた島では、すぐに川が発見され、水問題はクリア。釣り道具も持っていたので、魚釣りにより食料問題もだいだいクリア。(ついでにサザエもゲット)
しかし、3人の中で一番博識(?)なハカセは言う。「人間はつねに食物のバランスを考えなくてはならない。動物性タンパク質ばかりでなく植物性のビタミンだとか炭水化物をとらなくては栄養がかたよってしまう」
小学生とは思えない、さすがハカセとのあだ名を持つ少年の発言だ。
そこで、食べられる植物を探したところ、八百屋の息子のハチベエが「おまえ知らないのか。ユリの根っこって、たべられるんだぜ」とユリ根を発見するのである。
これは私にとっての朗報であった。
だって、遭難する時に釣り竿を持っている確率は低いので(そもそも釣り竿を所持していない)魚ゲットは私にとってはかなり高いハードルだったのだ。さらに、サザエは貝類が苦手な私にとっては、できれば避けたい食材だ。いざという時にはもちろんたべる覚悟はあるけれども…。
そんな中でユリ根は、掘ればいいのである。私でも簡単に獲得できそうだ。
しかも、ゆでて食べると、ジャガイモとクワイを一緒にしたようなお味だという。調理法も簡単だ。
これだ!これなら、私でも無人島でしばらく生活ができそうだ!
小学生当時の私はここでしっかり「ユリ根=非常食」の知識による、いざというときへの安心を手にして満足したのである。
しかし、今回久しぶりに再読してみたところ、大きな心配がむくむくと芽生える事態が発生していたことに気づいた。
3人の無人島サバイバル生活は実質1週間なのだが、そのわずか1週間の間に、ユリ根を掘り尽くしているのである!
正確には、群生していた1カ所を掘り尽くし、別の場所へユリを掘りに行かなくてはならなくなったのだ。
「この島の海岸には、オニユリの群落があちこちに点在していたから、たちまちこまることはなかったけれど」と作中では書かれているが、たちまちは困らなくても、将来的には困るではないか!
しかも、1カ所を掘り尽くしてしまったら、その場所では翌年は花が咲かず、長期間の漂流生活には耐えきれない。
考えの浅い小学生3人組め!どうして、半分くらいでやめておく分別を持たないのか。
たかだか3人の小学生の胃袋を満たすだけでも、すぐに掘り尽くされてしまうユリ根…。
これは、漂流時の食料の決定打としては、いささか不安が残る。短期間向けなのか。
作中ではまったく問題になっていない部分で頭を抱える私。
ズッコケ3人組は1週間程度で漂流生活を終了しているが、私が漂流するときには1週間程度で助けられる保証はどこにもないのである。
これはいけない。ユリを見て「非常食確保。安心」と思っていたが、本当は全く安心ではなかったのだ。
ユリ根以外の漂流時の食料の知識を得なくてはならない。
長いこと、ユリ根で安心、と思っていたものが崩れてしまい、今、非常に切羽詰まった気持ちになっている。
この気持ちを落ち着けるためには、すぐさま本棚をあさり、無人島漂流モノの小説を再読して、ユリ根に変わる食料の知識を探さねばならない。
幸い、私は無人島漂流モノ小説を何冊か所持している。この中に決定打があることを切に願う!!
ポプラ社文庫版もあります。
その後、某芸人さんの無人島サバイバルロケを見たところ、ユリ根がめっちゃ登場していた!
サバイバルの師匠が教えたもの。ユリ根、ドングリ、ツワブキ!
やっぱり、私の無人島生き残り方法に間違いは無かった。ユリ根でイイのだ。
しかし、ロケで作った食材はほぼ最悪のお味だったらしい…。
某芸人さんが「おげぇぇ…」と吐き出している姿に爆笑しながら、ユリ根、やっぱダメかも…とちょっと複雑な気持ちにもなった。
「この御朱印が凄い!」地球の歩き方編集室/「御朱印トレッキング」(公社)東京都山岳連盟監修
富士山で焼印を集めまくった私だが、それと同時に御朱印も頂いてきた。
焼印だけでは片手落ち!御朱印も見逃す訳にはいかない。
富士山の山頂には久須志神社(浅間神社の末社)と冨士山頂上浅間大社奥社があり、それぞれ御朱印が頂けるのだ。
なかなかの高額(1000円)だったが、山頂の御朱印はこのチャンスを逃したら、一生後悔するかもしれない、との強い覚悟で、両方頂いてきた。何しろ、この先、富士山の頂上まで行くことが、そんなに度々あるとは思えない。
頂上まで登って、山の神様(富士山はコノハナサクヤ)にご挨拶した証だ。とても嬉しい。
もちろん、事前情報で御朱印がいただけることは知っていたので、自前の御朱印帳を持参した。
しかしながら、帰宅して、バイブルである「この御朱印が凄い!」(第壱集)を開いて、自分のミスに気づいてしまった。
5合目の小御嶽神社でも御朱印がもらえたらしいのだ。しかも、小御嶽神社の御朱印は、そのものズバリど真ん中に「富士山」と、どーんと書かれるらしい。
しまったー。こっちも頂けばよかったー。
登山前に5合目でうどんを食べているときに、神社があるな、とは思っていた。そして
、ものすごく混んでいるな、とも確か思った。(5合目は全体的にどこもかしこも混んでいた)しかし、その時は、御朱印の発想はなく、頂上までの道のりのことばかり考えていて、お参りすらしそびれてしまったのだ。
登山前の事前学習の時に、どうしてこの本を開かなかったのか、と自分を責めるが、今となっては後の祭りだ。
本を開きながら、一人静かに反省する。根が暗いので、ひたすら、どんより落ち込むだけ。
さらに「この御朱印が凄い!」を再読してみたところ、いろいろな情報が詰め混まれていることに気づいた。
富士山山頂でいただいた御朱印の色は、なんとなく黒ずんでいる。他の寺社の鮮やかな朱印とは明らかに色が違う。
頂いた時は、さすが富士山山頂は、渋い色だな、と思った。渋い大人は深煎りコーヒーをブラックで飲む、みたいな感じだ。
実はそんな、簡単なものじゃなかった!
「この御朱印が凄い!」によると、この色は、朱肉に富士山の溶岩をすりつぶしたものを混ぜ、溶岩の色に似せているのだそうだ。
溶岩が混ざっているとは!ホンモノだ!!
相場より相当高い費用は、山頂価格というよりは溶岩価格だったのかもしれない。これは納得のお値段だ。
富士山を登っているときに、実感として、周りの岩が赤いな、と感じていた。同行のイト坊と「赤富士って本当なんだねえ」「昔の富士山の絵を見ると、赤で書かれたものがたくさんあるらしいよ」などと会話していたのだ。
朱印の赤色で富士山の溶岩の色を表すとは、さすが山頂の浅間神社だ。
御朱印を見返す度に、あの富士山の光景がよみがえってくるではないか。ありがたい!
そして、山頂でただ御朱印を貰っただけでは、溶岩が混ざっていることなど知らなかった。
知った今、いただいた御朱印にありがたさと益々の愛着を感じる。お気に入り御朱印だ。英語で言うとMy favorit GOSYUINだ。英語で言う必要なかったか。
知ることって大事なことだ。教えてくれてありがとう、本よ。
もう一つ、この本で得た情報をついでに記しておく。
富士山の土地の所有者は一体誰なのか?
実は、8合目より上は、浅間神社の境内なのだそうだ。(それより下は…?どうやら国有地か県有地のよう)
このあたりのいきさつは、本には記載されていないが、いろいろ面白そうなので、別に調べてみたいと思う。(静岡山梨県境問題とかもからむみたい)
日本の山にはそれぞれ山の神様がいて、概ねその神様を祀った神社がある。山は信仰の対象で、修験者達などが修行の場として、山道を切り開いて、山頂などに祠や社を設置した。
有名な剱岳の逸話(明治時代に剱岳に初登頂した際に、頂上で平安時代くらいの僧侶の持ち物である錫杖の頭が発見された)もあるとおり、修験者は登山家と言った方がいいのでは、と思うくらい、各地の険しい山を登頂している。
それなので、登山のために山に行くと、一緒に神社やお寺にも参拝できることが多い。そうすると、御朱印も頂けるのだ。
登山と御朱印集めはとても近い場所にある。
先日、深夜のア●ゾン閲覧中に私はある本のタイトルに釘付けになった。
「御朱印トレッキング」東京都山岳連盟 監修
操られるように自然と人差し指に力がこもり、ぽちっと買い物カートに追加してしまった。
やはりあったか。登山と御朱印集めの二つを合わせたガイド本が。
あると思ったのだ。だって、先ほども言ったが、登山と御朱印集めはとても近いのだ。山に登りに行くついでに、御朱印も集められるのだ。
だったら、両方を兼ね備えた本が出るのも必然だ。かゆいところに手が届く、日本の出版業界!ニッチな需要に応えてこそ!
この本のターゲットはどのどちらか一方でも興味がある人なのだろうが、その両方に興味がある私が購入しないわけがない。深夜のア●ゾンという危険ゾーンにいなかったとしても、即決で購入したはずだ。多分…。
さて、「御朱印トレッキング」は東京近郊の低山トレッキングを中心に、御朱印も頂ける社寺を紹介している。
低山中心ではあるが、なんと富士山も紹介されている。やはり、これはどうしても押さえておかねばならない、と東京都山岳連盟が考えたのだろう、きっと。
紹介されているのは、まずは静岡県の富士山本宮浅間大社から山梨の北口本宮富士山浅間大社に巡り、吉田ルートで富士山頂まで登るというがっつりコースだ。
そうか。麓の浅間大社から巡る方が、より本格的だったか。
しかしながら、この本では富士スバルライン5合目を通過するコースだが、小御嶽神社には全く触れず、完全スルーである。
「この御朱印が凄い!」によると、「富士山」御朱印が頂けるというのに。
代わりと言っては何だが、焼印集めが紹介されている。
私とすると、「この御朱印が凄い!」と「御朱印トレッキング」の2冊の情報が、うまい具合に補完し合っているので、ちょうど良い。ガイドブックは2冊以上は読む方が、自分好みの情報が取捨選択できてちょうど良いのかもしれない。
しかし、この2冊を改めて読んだのは富士山下山後なのだった…。
その他にも、「御朱印トレッキング」ではオススメの山と寺社のコースが紹介されている。
最も目を引いたのは、御岳山と武蔵御嶽神社だ。
お犬様(狼)を祀っているという。秩父の三峯神社のように、狼が狛犬なのだろうか。是非とも行ってみたい。
トレッキングコースもケーブルカーが利用できて3時間半くらいと冬の低山めぐりにとても良さそうである。
今年の冬は御岳山だな、と期待ににやにや含み笑いをしながら、心のノートにメモをした。いい本、見つけたな~。
しかし、本を読み進めていくと、私に大きな失望が走った。
12年に一度の戌年の式年大祭の年のみ狼の限定御朱印が頂けるという。
本には「今年はいただける」などと記載があるが、私は令和元年、亥年に読んでいるのである。次の戌年っていつよ!11年先だよ!
通常の御朱印も木(杉?)でなかなかステキな意匠だが、どうせなら狼の方がいい。だって、カッコいいから。俗な理由で申し訳ない…。
11年後に行くために、ずっと暖めておくべきか、もう諦めて今年行くか…迷う。
限定御朱印の事など知らなければ、すっきり思い立った時に行けるのだが…。時に情報はあればあったで人を惑わすものなのだ。
その他、紹介されていたコースでは、鎌倉アルプスに行きたい。鎌倉五山制覇は私の悲願である。
日本全国この御朱印が凄い! 第壱集 増補改訂版 (地球の歩き方―御朱印シリーズ)
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